コロナ禍の津波被災地踏査雑感~2020年度国内留学
大矢根淳(専修大学 人間科学部教授)
2020年度の一年間、国内留学(尚絅学院大学・客員研究員)の機会に恵まれ、仙台で一年間の単身赴任生活を送った。東日本大震災10年目の諸相を調査しようと計画していたが、このコロナ禍で対面的なインタビュー調査の実施は難しくなってしまった。そこで年度後半には、学生時代(1990年代初頭)に読み耽(ふけ)った一冊の古典と、10年前・震災直後に発刊された一冊の地図帳を手に、津波被災地の今を静かに歩いて見て回ることとした。
その古典とは昭和18(1943)年に刊行された『津浪と村』。これには、明治大海嘯(明治29=1898年の三陸大津波)と昭和三陸地震津波(昭和8=1943年)後に、リアスの浜で生き抜いた人々がどのように生活と地域を立て直していったか、特に、津波の再来を恐れて高台に集落を移転したはずなのに、その後なぜ低地に住み戻り、そして再び被災することを繰り返してしまったのか。地理学・民俗学を専(もっぱ)らとする著者の山口弥一郎は、戦時中、リュックを背負ってリアスの小漁村を一つずつ訪ね歩いて(マイカーはまだない)、あるいは船で渡って、その低地への住み戻りの経緯・理由をたずねる調査(地理学ではそれを巡検と、我々社会学ではそれをフィールドワークと呼ぶ)を続けた。同書はその記録である。
10年前に発刊された地図帳とは、地図専門の昭文社から震災直後に発刊された『復興支援地図』。津波で浸水したエリアが色塗りされていて、通行制限のかかっている道路が細かく記されている。現地に支援や調査に行く際には、必携書であった。海辺の公共交通機関は寸断されていて、マイカー・レンタカーを利用するにもカーナビは使い物にならなかった。同書を手に、山や海の地形と照らし合わせて進んだ記憶がある。細かく見ると、山口の古典に記されていた重要な旧地名が、この地図には数多く載せられているのには吃驚!(びっくり!)
今回わたくしはこの二冊を手に、山口の足跡に倣(なら)い、宮城県石巻市小渕浜(牡鹿半島の漁村)から発して北上し、岩手県、青森県と小さな浜を一つずつたずねてみた。歩いてみて改めて実感できたのは、次の二点。(1)この100年の交通インフラの更改と、(2)数百年かわらぬ高台の神社からの俯瞰。
(1) リアスの集落間のこの100年の交通インフラの変遷(船→トラック道路・二級国道→鉄道+国道45号)と共に集落の空間構成が改変されてきている。特に各被災を機にそれは進展し、この度は三陸自動車道とBRT(鉄道に代わるバス高速輸送システム)が新たな導線として加わった。
(2)もう一つは、度重なる津波襲来にも流失せず現存する高台の神社からの低地集落の眺め。社には樹齢数千年と謂われる杉の大木が威風を示すところもある。「度重なる里の被災を俯瞰してきた地神の視角」。浜の人々は喰わしてくれる海を畏怖してきた。社からは今、防潮堤とバイパス道が、そして高台に造成中の復興住宅地が一瞥できる。次の被災時、社からは何が見えるのか。人々はどのように生き抜くのか。
このネット全盛の時代に、私はなぜ、このようなアナログ式踏査をしなくてはならなかったのだろうか。それはおそらく、その地で生きていく覚悟を決めている人々が環境といかに交感してきているのか、その履歴・現実を理解したかったからだと思う。これを理解していないと、インタビューをしても語りをその人の意図に沿っては解釈し得ないからだ。復興の主格である浜の人びとの言説(生活再建のロジック)に真摯に学ぶこと、これが復興研究に就く学徒にとっての原点なのではないかと思う。
文献
山口弥一郎, 1943(=2011復刻), 『津浪と村』恒春閣書房(三弥井書店)
『東日本大震災復興支援地図』昭文社
