誇らしく思える地域復興
上村靖司(長岡技術科学大学 機械系教授)
「どこにいたって、新地が好きです」。ブルーグリーンの背景に💛(ハートマーク)とシンチの文字がデザインされたステッカーとポスターが町中に貼られていた。町出身のデザイナーが震災後すぐに送ってきてくれたそうだ。がれきの片づけに駆けつけてくれたボランティアたちも、皆ステッカーとバッジをもらい、新地ファンの仲間入りをした。
福島県新地町は津波によって町の5分の1が浸水し118名の尊い命が失われた。震災前の人口は約8200人。震災から3年後には7700人まで減少したが、その翌年「すまい再建」が完了すると、震災前の水準まで回復した。防災集団移転事業(防集)による7か所151区画の宅地造成と66戸の公営住宅への移転では従来のコミュニティ維持にこだわった。住民グループ提案の防災集団移転も2ヵ所実現した。防集の100坪要件を超える敷地も個人負担で購入できるよう柔軟に対応した。「住民本位のオーダーメード」をやり通したのだ。
「やっぱり新地がいいね」。震災翌年に策定された復興計画の第1頁に基本理念として掲げられた文言だ。移転を余儀なくされた全ての集落で5回ずつのワークショップを繰り返した。住み続けたいという被災者の気持ちに徹底的に寄り添った。そして3年後に更新された復興二次計画には「最後の一人が住まいの再建を終えるまで」と明記された。「なぜ新地は行政に対する不満がこれほど少ないのか」とある新聞記者に言わしめるだけの納得感のある復興を成し遂げた。
2020年11月28日、コロナ禍で延期になっていた駅周辺市街地の復興整備事業竣工記念式典に向かった。快晴だった。2列目の防潮堤を兼ねて整備された真っ直ぐに伸びる海沿いの県道は、前にも後ろにもすれ違う車もなく、海の景色を独り占めしながら海岸線ドライブを楽しんだ。ピカピカの駅前のホールで粛々と進められた式典が終わると自衛隊音楽隊による演奏。新地町と自衛隊の縁は深い。
被災直後、捜索していた隊員が、瓦礫の中から4つ折り小学校名入りの日の丸を見つけ、瓦礫のアルミサッシフレームを旗竿として掲げた。これが「復興フラッグ」の始まりだった。別の隊員がより大きな2代目に言葉を添え、2年半後に風雨で傷んだ旗を見かねたライダー隊が3代目を掲げた。その後、劣化のたびに代替わりしながら新地の復興の象徴として継がれてきた。そして今、駅と海に挟まれた場所に整備された真新しい防災公園のど真ん中に、それは誇らしげにたなびいている。