電信柱をくぐる:「災害の記憶」のオルタナティブ
高原耕平
(阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター研究部 主任研究員)
たしか2年前にこの写真を見たとき、おなかの底がゆっくりと対流するような感覚を覚えた。放置していた書類の山に手を入れて下の方から資料を取り出す、という動作が身体のなかで起きたような感覚だった。

この写真はJR住吉駅ビル(神戸市東灘区)から撮られたものだろう。倒壊したコープこうべ本部ビルを見下ろしている。上述の奇妙な感覚が生じたのは、この写真が撮られたのとほぼ同じ時期に筆者がこの倒壊現場のそばを歩いていたからだろう。写真左側の南北の筋(有馬道)に、傾いた電信柱が映っている。こういった電信柱をくぐるときの、頭上を見上げながら不安定な足元にも意識を配りつつ案外すたすたと脚を運ぶ感覚が身体に残っている気がする。地面と身体と視界に入る建物のいずれが傾いているのかわからないまま、目的地をめざしている。そのときここを歩いたのは母とおばあちゃんの様子を見に行くためで、この筋のもうすこし北にあった喫茶店が営業再開していたので二人でコーヒーを飲んだ。母は「インスタントコーヒーで300円は高いな」とこぼしたが、震災価格なのだしお店をがんばって開けてくれてるからいいじゃないかと感じたような記憶が、あるような無いような。
身体を傾けて電信柱をくぐる感覚、絶え間ない重機の音、コンクリートから舞い上がる粉塵の臭い、既存の秩序がいったん崩れたのちに急速に溢れる情報。こうした体感的な記憶は日常生活のなかで思い起こす機会があまり無いし、強いてこころから「取り出す」ことも難しい。なのにたまたま見つけた一葉の写真からざわりぞわりと現れる。意識が目次を把握していないような記憶を蘇らせるための準備を皮膚がひっそりと満たしていて、かすかなきっかけを待っている。そうして寄せてきた感覚を掴まえて味わおうとするけれど、足元の渚の泡が逃げてゆくように消えてしまう。
こうした皮膚や感覚の次元でほぼ終始する体験も「災害の記憶」の一部ではある。だがそこから教訓を抽出したり、言語化したりするのには向いていない。「防災」や「伝承」にたいして役立つものではないだろう。かすかな感覚や断片的もしくは外傷的な印象は、社会的な強度を持った「意味」の次元にまでたどりつかないからだ。
しかし、この波打ち際で待つほかないような記憶、ただ皮膚のみが現在と過去の境界であるような記憶もまた、わたしたちの生存と共存には必要なのではないか。意味によって把握され、正確性によって凝固した「記憶」は、独特の重みを持つ。それをどう扱うか、どう役立てるかという議論に入り込んでしまい、想起と傾聴の重みに取り囲まれてときに身動きができなくなる。
そうならないような思い出し方(あるいは、思い出さないままでいる仕方)があってもよいのではないかと考えている。それがじぶん一人の皮膚に閉じこもるのではない仕方であればなおよいと思う。